昭和42年12月6日 夜の御理解                    大坪加代太郎



 信心をさせてもろうて、ほんとに神様をいよいよ、信じきらせていただいた生活、神様を信じきっての生活。そういう生活が、できるようになることを目指しての信心でなからなければいけません。(あのさきのさきの?)、苦しい時の神頼み的なことが、信心だと、思うておる人が多いようですけれども、そういうところから、そのまま信心に入ってくるんですけれども、お道の信心は、そういうところから入ってきてだんだん信心の道が分かる。そして、その信心、神様がいよいよ、ほんとにあの、間違いのない働きを下さる神様であり、この神様のおかげを頂かなければ、実を言うたら、もう一時だって立ち行くことのできないという、ことを、信じさせてもろうて、この神様にすがりさえしておけば、という、この安心の、おかげを頂いたときに、生活。それを信心生活だとこう思うのです。

 それぞれが信心を頂いておりましても、その雨も降れば、風も吹きます。お天気の日だけじゃないのですけれども、お互いが、どのような場合でも、信心を頂いておれば安心だと、言うとことまで、信心を高めておらなければならない。それはちょうど、傘を持つようなもの。いつも傘を持っておるようなもの、信心とは。ですから、あいたこれは曇ってきたらどうなるじゃろかと、と言うて、(  ? )、何か難儀なことが起こってくる。困ったことが起こってくる。

 最近なんかは、この、あっちこっち(  ?      )の、(れいけんこうせい?)と言うですか、(事務所?)があちらこちらへの、いかれるわけですね。もう、不意に行かれるんですから面食らうわけです。今日もある方から、その、事務所にきとります方でよろしくお願いしますと。先ほど、また電話が掛かってまいりましてから、もうそれこそ、何もかにもこう調べますですね、三年も向こうに、さかのぼってから調べるとこう言います。それで、そちらに、今なら、手が打てるんですけれども、手を打ったが良いでしょうか、このまま、手を打たんででよいでしょうか、とこういうようなことです。

 だから、どういうようなことでもあるのです、信心させて頂きよっても。生きることもありゃ死ぬこともある。(   ?       )もありゃ、水で流されるようなこともある。けれどもどんな場合でも、流される中でも、その死なんような信心なんだ。というところまで信心いただかにゃいかん、けれど、(溺れもする?)と信心が流される。信心が焼かれてなくなってしまう。難儀に直面したために、それで信心がなくなったという人たちがやっぱあるのです。だから、ほん、火にも焼けない、水にも流されない、信心をお互いがさせてもろうて、おかげいただかにゃいけません。

 最近も、(  ?  )、(    ?   )させてもらいましたがね、もうあの、小菊がいっぱい作ってあります。あの小菊というのはこう、(    ?    )ね。小さい小菊がこう、ほんとにこう、あの作ってある。そこにその、こんくらいばっかりな、(  おんなだけ?)が、1、2本こう、さしてある。まあ、何と言いますかね、そういう、手をつけた、けれども私がその、ご神前に上がらせてもらうとそこに、菊畑の中にですね、その手なんかはもう必要なろうごたる。大きな花が咲いとるわけでもなからなければ、もう密集しておる。菊がこう。だからこれは風でも吹けば、吹き倒れるかもしれんけれども、もう私はこの手は必要ないと思うから、(        ?        )申しました。あのね、もう人に頼んだり誰に頼んだり、もう手を打つ必要はない。こういうときこそ日ごろ信心頂いておる、日頃頂いておる、信心に物言わせにゃならんときだ。したら、はー分かりました、と言うてからです、日頃信心修行ができてるんですから、もうして、お届けを頂いて(  ?   )腹が決まるですね。それが安心。もうどうでもいい、と言う腹が出来るんですね。親先生がそう言うていただくのだから、ね、もう手は打つ必要はないんだ。神様におすがりするんだ、日頃頂いておる信心を、こういうとき、表す以外にないのだ、というわけなんです。

 今、(   ?   )秋永先生も、今朝から、神様にお知らせ頂いておられます、お届けがあった。御理解に対して、やっぱりあの、これは、大きな一輪挿しの、菊の花を3本頂いた。一本は活き活きと瑞々しい、花が咲いておる。一本はもう、少し、菊の花がこう、まあ言うならば、すれておる。一本は、もう葉が、少し枯れかかって、もうお終いの、て言う、三本、3種類の、菊の花を頂くんですね。だから私、菊の花って言うことは、聞くということね、歌の文句にもあるように、根もきく葉もきく花もきく、ね、あんな歌がありましょうが。

 ですから私はね、きくと言うことは神様の言うことを聞くということ。神様の教えをよく聞くということ。御理解をよく頂き聞くということ。親先生の言うことを、そのまま、はい、と素直に聞くということ。そういうことだと私は思ったです。ですから、お互いがですね、信心に生き生きとしておるときの、その、今のそれじゃありませんけれども、事務所がどういうふうに言うたかは知りませんけれども、ね、あの手この手を打つことはいりませんよ。はい、分かりました。とこう、もうその、生き生きとしたその受け方なんですね。ところが信心が、日頃、なんと申しましょうか、(  ?  )な信心しておりますとですね、先生はあげん言いなさるばってん、大丈夫じゃろうか、ばってん先生がまあ言いなさるけん、もうそうしとこう。これはまあ中くらいばっかりの、菊の花んところじゃないでしょうかね。

 先生が、私は左と思うけれども、先生が右と仰るから、よしと腹を決めましたと。親先生が仰ることは、そのまま神様の仰るのと同じだと、思い込んでいただくという頂き方が、生き生きとした、有難い頂き方だと。そこに安心があるのが、生き生きとした頂き方だとこう思う。(    ?       )、問題ではないのです。ね、3年前からさかのぼって調べられて、そしてたくさんの、税金を(ひきとめたい?)。もう、ままよという心なんです。ここんところろに人間の、助かりというのはそういうことだと思うですね。

 そして、もう一本の枯れた菊というのが、これは、先生はあげん引きなさるばってん、引かん方がよかろうというて、私もう聞かない。言わば生き方じゃなかろうかとこう思うですね。でなかったら、やっとかっと(きりかる?)と言ったような、聞き方じゃないだろうか。いわゆる根も菊葉も菊花も菊にならない。ね、形だけじゃない、根だけじゃない、花だけじゃない、葉だけじゃない。根も葉も菊、根も、葉も、花も、私は菊でなからなければいけない。そこにスッキリとした心を、私日頃信心頂いておる者の、値打ちであり、信心頂いておる者の、態度だ。そこへ、神様をいよいよ信じられなければです、日頃、しっかり信心させてもろうて、教えをよく頂いて、教えを頂いて、神様をいつも自分の心の中に頂いて、有難い、という日常生活ができておらなければできません。

 今日私ども、北野の教会の御大祭で、ここから十一人ぐらいお参りしておりましたでしょう。今日は賑やかな御大祭でございました。お祭りを頂きましてから帰らせていただいて、それから私、ここに秋永先生と2人で、(  ? )話しておりましたら、裏から母がやってきてから、先生には(お芝居見られてはよきなさい・・・・・・・・・・・?)言うてきましたもん。私は芝居が好きなもんですからね、テレビで芝居があるときに知らせてくれるんですよ。歌舞伎なんですね。(ていらんたいへいき?)ですか。(  ?   )と、(松平いずのかみ?)の出会いの、そういうお芝居なんですね。(まるばしちゅうや?)が、あの江戸城の、堀の深さを試そうというわけなんですね。それをその、酔うたふりをして、酔うたふりをしてその、石に、あの、( ? )石をこう投げる、ふりをからして、石を、堀の中に投げ込んで、かーっとあの、キセルなんかを出してね、いわゆる芝居で一番よかとこです。その、水の深さを、言わば測りにきておられる。この人はもう大変な謀反を起こそうとしておられますですね。それを、水の深さをこう試そうとして、えー、こう決まっておるとこね、お芝居で言うなら。ところを、後から(いずのかみ?)ですね、それこそ( ?  )と言われた、(いずのかみ?)が、後に裃姿で立って、こう傘を、でこう。その(まるばしちゅうや?)の上に、(さすてけて?)やってある。今まで降りよった雨が、(  ?    )から手をこう差し伸べると、上のほうに傘があるからびっくりすると後へ、(いずのかみ?)が立っておるというとこでございます。そこで、(    いずのかみ?)のいわゆる太っ腹なところを、見せるというお芝居、なんですね。(まるばしちゅうや?)が、そこを、ごまかして通ろうとしますけども、もう(いずのかみ?)は、これが何をしよるかちゃーんと知ってるわけです。ね、知ってるけれどもです、それを、大きく、その、見逃してやるところです。

 芝居には、いわゆるこの傘を使う演出がいくらもございます。皆さん、ご承知でしょうかね、あの、たいへんに、歌舞伎十八番に、助六というのがあります。ね、紫のハチマキをして、あの蛇の目の傘を持って、あの花道から出てくる、もう素晴らしいお芝居なんです。これがいわゆるその伊達姿なんですね。もう伊達男なんです。助六というのは。それがその、紫のハチマキと、その、蛇の目、を演出の、道具に使って、お芝居いたします、お芝居です。それからね、忠臣蔵にもあの、傘を使うておられますね。忠臣蔵のあの、山崎泰三です。あの志士を打つところね。(志士打ちかんてい?)の場なんです。(さだくろう?)が花道から、(  ? )の破れたような傘をこう差してから、たったったったとやってまいります。して、あの舞台の正面で、あのこう、(    ?   )、そしてあの、(もず?)雨宿りをする、場面がございます。

 どれも、やはりそのお芝居の中に、傘が出てくるお芝居なんです。その中から、今日私が皆さんに聞いてもらっておるですね、例えば私どもがいつでも、信心という傘を持っておけば安心だと。いつも金光様、とこう、いう、例えばもし曇ってきても、難儀なことが起こってきても、はーどげんなるじゃろかと不安になるようなことが起こってきても、いや、この傘を持っておるから、ふっと降る時にあっても差せばいい。濡れんですむという安心があるのです。照ってきたらそれを差せば暑い思いをせんですむ。信心とはそんなに有難いものなんです。ね、信心を頂いたら、濡れる時には親先生がござるから、いよいよのときには神様がござるから、と、こう心に思うておるだけでも安心なんですけれども、その安心の中にはです、先ほどか申しますように、秋永先生が頂いておられる、いわゆる、その三つ、菊をですね、生き生きとした、生き方。生き生きとした、言わば拝ませていただき方。聞き方。ね、親先生が仰ることをそのまま神様のお言葉として、生き生きとしてそれを、頂き方、が出来るような信心をさせていただいたら、見事に、よい傘が持てるのです。

 例えて言うならば、伊達に信心をしておる人もあります。ですから(  ?  )ないときに(  ?   )信心しとりますけん、もういよいよのときは無理じゃろう、って( ?  )安心しとりますとこう言う。何でもないときには。ね、けれどもそれが難儀かということになってくると、慌てだしてくる。これはちょうど、その助六の持っておる傘のようなもんじゃないでしょうかね。伊達の傘を、伊達の信心。見かけだけの信心。これじゃ信心は役に立たないですね。大したことは役に立たない。かと言うてんなら、例えば、その、(さだくろう?)が持つ、(さだくろう?)というのは悪党なんですね。(  ?  )を、殺してその、金を取ろうと言うような悪党なんです。それにわか雨におうて、その、破り傘の、破り傘を差して、やってくるという、そういう、私は、信心。いわゆる、破れかぶれの信心と。(    ?  )ですわね。

 何と言うても私はですね、例えばどういうような場合でも、これで(一大大事?)になる、かも分からん。(小指?)伸ばせば。けれどもそこをです、(いずのかみ?)の言わば、その、大きな腹と言うんですかね、度胸というでしょうか、で、それを、こう、かえってその、相手をですね、ある意味逃さんで、こう、さしかけてやるというような信心。いわゆる、大きな豊かな信心。大きな信心をさせてもらう、豊かな信心をさせてもらう。行き詰りのない信心をさせてもらう。ね、振っても照っても有難いと分からせてもらう信心。ね、そういう私は大きな豊かな、一切が包容できるような、信心から生まれてくるところの、安心。そういうところから生まれてくるところの、いわゆる(まつだいらいずのかみ?)が持っておるところの、ような、傘のおかげを頂かせてもらわなければならん。
 果たしてお互いの、頂いておる信心の傘って言うのはどの程度の傘だろうか。お互いが傘を持たせてもらわなきゃいけません。そして、私ども生き生きとしてです、神様のご神意のままに、動かしてもらう。神様の、思し召しのままに、仰せのままに、動かせていただけれると言うような、信心。そこに、生まれてくる信心。神様任せにならせて頂いておるということが、有難いと、心得させてもらう信心。そういう信心をお互い、身に付けていきたいと思いますね。

 今、ここに前に、( ?  )税務署の、ことに、心配しておられる方に対して、私が返事を申しあげた、ことから、秋永先生が、ただ今頂かれた、神様から頂かれた、その御理解のことから、今日私が、テレビを見せていただいたその、(いずのかみ?)が持つ、傘の、お芝居の中に出てくる、(さんよう?)の傘のことから、ヒントを得てから今日の御理解を頂いたんです。そこからどうか一つその、私どもの持っておる傘がです、信心頂いておるけれどもです、ほんとに、私は、大きな豊かな、破れのない、信心。そういう傘の持てれる信心を、頂くことを願いとしての信心。そこには、そういう信心になるならどういう信心をさせていただいたら、そういうおかげが頂けるかというところに、焦点を置いて、お互い信心のをさせていただいたら、信心がもう楽しいことになってくる。有難いことになってくる。信心がより生き生きとしてくるわけなんですね。どうぞ。